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歴女と呼ばれたくない歴女が、関ヶ原の戦いで明暗を分けた武将の一人『吉川広家(きっかわひろいえ)←私の推し』を求めて岩国城を聖地巡礼したらまるで「猫の恩返し」の序盤のような不思議体験をした話
2022.04.13
まずはいつもの前置き
ようこそいらっしゃいました、松本の部屋でございます。
そろそろ私という存在を覚えていただけている頃でしょうか??
\ 前回ブログへはコチラをクリック! /
atm.gr.jp/blog/2022-matsumoto-jozetora/
前回は「ジョゼと虎の魚たち」のプチ聖地巡礼を行った私ですが、今までにも色々な場所を聖地巡礼してきました。
今回もちょっと…いや、割とすごい体験をした聖地巡礼についてお話していこうと思っております。
聖地巡礼とはいっても、有名なアニメや漫画作品の聖地巡礼ではないので少し特殊かもしれません。
私が巡礼していたのは本当に神聖なる場所というのも正しいかわかりませんが、寺社仏閣や城跡やお城の聖地巡礼です。
つまりですが、私は一時期戦国時代にお熱な時期がありました!!!
きっかけは「戦国無双をプレイしていてハマってしまったこと」というとてもミーハーな入り方でした。
しかしプレイしていると、「明智光秀そりゃ本能寺の変起こすわ」とか「石田三成そりゃ裏切られるわ。素直に謝れよ」と各キャラクターに感情移入してしまったり、「何が史実とされていて何が史実を脚色しifとして描かれているのか」と興味を持ってしまったりでWikipediaで検索しては調べる手がいつの間にか止まらなくなっていたのです。
広島出身ということもあり、はじめは「三本の矢」で有名な謀将「毛利元就(もうりもとなり)」から私の興味は始まりました。毛利元就公の素晴らしさから語り始めると、元就公が息子たちへ宛てた手紙のような長………いや、論文のような長さになってしまうので省きます。
そしてその後に私の出身地である備後地区と大きな関りがある「小早川隆景(こばやかわたかかげ)」にドはまりし、タイトルにもある「吉川広家(きっかわひろいえ)」にまで行きついてしまうのですが、やっぱり長くなるので小早川隆景公についても素晴らしさを語るのは
今回は省かせていただきます!!
が、再推しなのでいずれは!!!!
それでもザックリ毛利家家系図と解説
それではここでみんな大好き家系図をご紹介しますが、ファンの方から怒られるようなザックリ毛利家家系図です。
\ ご覧ください!!! /
本当は毛利元就は70代になってからも子どもが生まれたような人なので、もっとたくさんの娘・息子たちがいるのですが、今回は皆さんすみません!
こちらをご覧になって気付いていただけたと思いますが…兄弟三人苗字が違うのですよ!!
そう、元就公は次男「吉川元春(きっかわもとはる)」と三男「小早川隆景」の二人を……
吉川・小早川それぞれの家に割と無理矢理にねじ込み実権を握らせます。
後に元春・隆景の二人を「毛利両川(もうりりょうせん)」と呼ぶのですが、これは二人でお兄ちゃんの支えとなり、常に毛利・吉川・小早川、兄弟で協力して毛利を存続させていきなさいという元就の策略の一つでもありました。隆元お兄ちゃんは早くに亡くなってしまったのですが……
この両川体制は一応孫の代まで引き継がれましたが、隆景の死により事実上消滅。しかし、広義では長州藩初期まで機能していたという見方もあるそうです。
さて、ここまで来てやっと「吉川広家」の話になりますが、ぶっちゃけ「吉川」ってあの人思い浮かべません?
そう、元水球選手でモニカ歌って布袋寅泰とシンバルハイキックでCOMPLEXでBE MY BABYしてた…
吉川晃司は吉川元春の子孫です!!!
……だから何かが関わってくることでもないのですが、私が吉川晃司さん好きなので自慢したかっただけです!
これからやっと吉川広家と岩国城を紹介していこうと思うのですが、岩国城の時代は、毛利の領地が安芸ほか8か国からほぼ4分の1、周防・長門の2か国29万8千石にまで大減封されてしまう関ケ原の戦いの後から始まります。
吉川広家と岩国城
\ まずは岩国城をご覧ください /
もちろん再建された天守閣です。
私、今までに岩国城に3回は行っているのですが…
いつも天気が悪いんですよ。暗いでしょ。私のテンションはアゲアゲなのに。
広家公に嫌われているのかツンデレされているのかは謎ですが、雪が降った&薄く積もった日もありました。
岩国城にはもう一つ有名なものがあります。それが
\ 錦帯橋 /
錦帯橋は、岩国城が築かれた後、岩国3代領主の吉川広嘉によって架けられました。
何度か流されてしまっているのですが、1953年に再建されてからは改修工事を重ね、今の状態を保っているそうです。
みんな傘さしてるでしょ。この日はみぞれの日だったかな、それとも雨だったかな…
錦帯橋のカーブは本当に美しく、岩国に行ってはたくさん写真を撮った記憶があります。
さらに、マニアにはたまらない
\ 吉川史料館 /
ファンとしてはやはり書状等、心に刻むこともできるけど撮っておきたい物が多いので、初めて訪れた際に「写真撮っていいんですか?」と興奮気味に聞きました。傍から見たら気持ち悪かっただろうなぁ…
こちらの史料館、撮影可能なのでとても助かります。
【吉川史料館の情報】
最終入館 PM4:30
〇料金
大人 500円
大学・高校生 300円
小中学生 200円
障がい者は半額
〇休館日
水曜日
(祝日の場合は翌日が休み)
年末年始
年末~1月1日
展示替え(年4回)
そして、前置きがとても長かったのですが、今回舞台となったのがこちら
\ 吉川家墓所 /
家初代広家から、6代経永を除く12代経幹(つねまさ)までの当主及び一族の墓が、51基立ち並んでいます。
お墓の写真は「あまりとらない方がいいかな?」と思ったので、ご興味のある方は公式観光サイトをご覧になってみてください!
【岩国市公式観光Webサイト:http://kankou.iwakuni-city.net/bosho.htm 】
この墓所の中にある「木菟の手水鉢(みみずくのちょうずばち)」についてのお話がまた素敵で…
お決まりのザックリ説明しますと、
お茶を通して秀吉の時代に吉川広家は上田宋箇(うえだそうこ)と仲良くなりました。徳川の世となったとき、二人は運命的に再開します。久々の宋箇との交流で感慨に浸った広家は「頭(こうべ)は垂れても花は桜木、人は武士」の言葉を添えて「枝垂桜」を贈りました。
その返礼として宋箇から広家に贈られたのが「木菟の手水鉢」だったのです。
しかし、
しかし!!!!
この手水鉢が岩国城に届いたのは広家の没後でした…
広家はこの頃病で倒れてしまっていたのです。
木菟は夜目が利き、知恵の象徴とされています。
そして宋箇の返礼に込められたメッセージは「そばで見守っておりますぞ」と見舞うものであったと伝えられています。
ちなみに!!
上記のお話は吉川史料館で購入できる、こちらの「英智の三藩主」で紹介されておりました。関ヶ原の戦いから幕末まで、幅広い時代について書かれているので歴史好きの方には特にオススメ!
そして言うまでもなく吉川家のファンの方々には、是非お手に取っていただきたいです。
\ そんなエモい「木菟の手水鉢」 /
この手水鉢、一番奥にある広家公のお墓の近くに置かれているのですが…
写真を撮った頃の私は、手水鉢の意味することを全く知らなかったのです。なのになぜ手水鉢を撮ったのか…?
理由は「吉川家墓所に入って間もなく前を歩き続けた猫」との出会いにあります。
猫の案内人?猫と歩いた吉川家墓所
吉川家墓所周りにも、私の出身地尾道のように猫がたくさんいます。そしてお馴染みのように人懐っこいです。
墓所に踏み入れた瞬間、複数匹の猫に囲まれました。
猫好きの方にとってはたまらなく幸せでしょうが、私にとっては恐怖とまではいきませんが…
完全にビビっておりました
奥に向かっていくにつれ、段々と猫が離れていったのですが、いつの間にか数メートル先に私の方を振り返って立ち止まる「黒ぶちの猫」がいました。
突然のことだったので写真に収めることは出来なかったのですが、その猫のいるところまで進むと「慈光院の墓」がありました。慈光院の墓とは、広家の母である新庄局が眠っているお墓なのです。
こんなことがあると「え、君もしかして広家様??」なんて思ってしまいませんか?
そんな風に思うから自然と慈光院の墓に手を合わせながら涙がホロリ……
私は感情移入の化身か何かでしょうか
私の気がすむまで手を合わせ、歩き始めると「黒ぶちの猫」がまた前を歩き始めます。
ある程度間隔が空くと立ち止まってこちらを眺め、私が追いつくと再び前を歩き始めるのです。
私は「猫の恩返しの序盤っぽくね?」と思い、「ついて来な」と言われているような不思議な気持ちを抱きつつ最後までこの猫について行ってみようと決めました。
バロンと出会えるかもしれない!!!(それはない)
そんなこんなを続けていると、また私を誘うように猫が立ち止まりました。
そこにあったのが、先ほど紹介した「木菟の手水鉢」だったのです。
その時は意味が分からなかったのですが、お墓ではないので写真を撮り、お墓ではないのに手を合わせて猫の方を見ました。
が、いつの間にやら「黒ぶちの猫」がいなくなっていたのです。
しかし、猫がいなくなった代わりにふと先に目をやると吉川広家公のお墓がありました。
「もしかして案内してくれた?やっぱムタさん??」
なんて正直妄想してしまいましたが、私はスピリチュアルな人間ではないし、「きっとただの観光客慣れした猫だろう」と思うことにして広家公のお墓を参って、吉川家墓所を後にしました。
聖地巡礼に必要なのはリスペクト
吉川広家をはじめ、毛利元就の孫世代はあまりいい描き方をされないことが多いです。それはきっと西国の覇者となっていた毛利家を、関ヶ原の戦いでほぼ4分の1の領地にまで減らし、安芸から追い出され敗者のイメージが根強いからです。
しかし、関ヶ原の戦い以降の吉川広家・毛利輝元はしっかりと内政を整え、新しく与えられた領地を整備し幕末の長州藩まで毛利家は存続します。
すごいことじゃないですか??
私はそんな毛利家のファンであり、大好きがゆえに「墓所を聖地巡礼と呼ぶのは失礼じゃないか?」と葛藤しましたが、あの「黒ぶちの猫」のおかげで勝手に認められた気持ちになり、聖地巡礼の不思議体験として今回の話をご紹介しました。
ミーハーな気持ちで行っていたらあの猫とは出会えなかったかもしれないし、木菟の手水鉢を撮影していなかったかもしれません。
勿論そんなことはわかりませんが、私が岩国に行くといつも天気は悪いけど猫に案内してもらえて、
やっぱり広家公はツンデレなんじゃないかな!
ということです(!?)
そして今回もありますよ、吉川広家と上田宋箇のエピソードに感動しすぎて描いた一枚。
これは何年前に描いたものでしょうか…少し恥ずかしい……けど、せっかくなので恒例行事にしましょうか!?
題して「戦国無双シリーズの吉川広家と木菟と桜」
(元となった「100万人の戦国無双」はコチラ➱https://www.gamecity.ne.jp/social-games/products/sengoku.htm)
最後にもう一枚、晴れた日に撮れた錦帯橋と岩国城を載せておきます。
お城はどこでしょう?
お城見つかりましたか?
それではまた、来月お会いしましょう!
END
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